メイド喫茶に行った

週末の昼時。喫茶店の空きは希少資源で、電源がある席を探して街を彷徨っていた。よく行く駅にはいくつか候補はあるもののどこも空振りで、これはもうメイド喫茶に行くしかないな、と思った。事前にネットで調べたわけでもなく、道で勧誘されたわけでもなく、電源ありますという看板があったわけではなく、これはもうメイド喫茶に行くしかないな、と思った。直感である。

入った。

注文した品を飲食するだけでなく給仕人と会話をするのがルールのようだった。明るい挨拶を受けた気もするが、自分は特に話すこともなく、天気の話が終わった後の気まずさに耐えきれず、とりあえず何かを注文してしまうよくわからない客になっていた。ご出発の際には普通の喫茶店に行く場合の数倍のお会計になっていた。悪い体験だったわけではないが、ブログのネタにするしかないという思いになるときもある。そういう経緯で書いている。これを書いているのはその直後の電車の中である。

店内は明るくて、入ると下手な居酒屋よりも大きな声で挨拶された。ちなみに出るときも挨拶された。

そこがどういうところだったかというと表現が難しくて、あの空間をどういう文脈で捉えればいいか整理ができていないところもある。とにかく思いついたところを書いている。普通の喫茶店はコーヒーと軽食と甘味があるが、この店にもそのような物があった。つまりメニューに普通の喫茶店と大きな差はなかった、酒も飲めるようだった。

何かを飲んでゆっくりできればよかったので、何かを頼もうとし、その旨を伝えたが、それだと十分なサービスが受けられないとの説明をうけた。十分なサービスとは飲み物の上に絵を描いたり、食べ物の上に絵を描いたりするサービスのことだ。これは聞いたことのあるサービスである。十分なサービスを受けられないのは粋ではないなと思った。お茶会に出て水だけ飲んで帰るような無粋な者でありたくないという思いがあった。では絵を描いて欲しいと頼んだ。そうすると給仕人が甘い飲み物の上に要求した動物の絵を描く技を披露してくれた。なるほどと思った。あまりに甘かったので後でブラックを頼んだ。

店内について。

給仕人と客の割合は1:2〜1:4くらいで、常に客が給仕人と会話をしているわけではなかった。短い滞在時間ではどういう力関係で動いているのかがよくわからなかった。会話についても特有のプロトコルがあるように思えたが、一度の訪問で一般化するのは難しいように思われた。

ある場合において、文化レベルの高いおじさまが専門的なことを話しているように思われた。またある場合において、簡単な近況報告をして終えていた。ほとんどの客は会話をする以外はスマホの画面を見ていた。途中、4往復ぐらいで会話を打ち切るルールがあるように思い、その通信を無意識に数えていた。会話の長さにルールがあるようには観測できなかったが、給仕人の発言数に規則があるように思えたからである。例えば、間髪いれずに言葉を紡いでいくご主人様がいて、それでいて適切なタイミングで適切な相槌を返すメイドの組がやや長めの時間で密度の濃い会話をしている場合もあった一方で、数語だけのやりとりで短く終えている場合も観測されたからである。ただこれは今回たまたまそうであっただけの気もする。

かなり趣味が悪いとは思うが、自分が会話をするよりも他人の会話を聞いている方が楽しいように思えた。とりわけメイド喫茶に通うおじさんの話は面白いのだなと思った。何を言っているかは半分もわからないけれども、何かを伝えたいという情熱がある。特に給仕人と会話しているおじさんは生き生きとしていて、頭も舌も良く回る。天井を見ながらコーヒーをすするしかない若造とは人生の厚みも経験も違うのだなという感じがした。

結局電源は使っていない。